町家や路地が印象的な京都の町並みの中に、6車線、時には8車線もある広い通りがあります。堀川通です。南から北に上り、御池を過ぎると東側に堀川という小さな川が現れるので、通りの名にだれもが納得されるでしょう。西本願寺や二条城といった京都を代表する歴史文化遺産が堀川通に面してゆったりとした景観を醸し出している一方で、背の高いビルディングも立ち並ぶようになりました。
丸太町を過ぎると、西側に背の低い3階建ての団地が見えてきます。中立売までのおよそ600mの間に、6棟立ち並んでいますので、高さの割に強い印象を与える風景を生み出しています。これが『堀川団地』です。
60歳を過ぎ、「再生」が話題になるようになった堀川団地ですが、太平洋戦争の戦災を乗り越え、現代京都を生み出してきた歴史を伝えています。建設当時、全国の戦災復興市街地住宅のモデルとなった堀川団地は、建築学上も価値が高いとされています。今後、「アートと交流」を基本テーマに建替も視野に入れた再生事業が行われることなりましたが、堀川団地が持っていた意味、物語は、未来に受け継がれていくことでしょう。
その願いもこめて、現在の商店街の前身である堀川京極商店街、戦前~戦後、この堀川団地が出来るまでの歴史をご紹介します。
―――今の新京極と並び称される賑やかな商店街でした。
太平洋戦争前、現在の広い堀川通は存在していませんでした。今の堀川団地がある一帯には、堀川(河川)と葭屋町通(現在の堀川通ひと筋西の南北の通り)の間に、西堀川通と呼ばれる南北の細い通りがありました。
その西堀川通を挟んで、中立売通と丸太町通の両側に250余軒の様々な商店が軒を連ねていました。これが 『堀川京極商店街』 で、今の堀川商店街の前身に当たります。
16世紀の頃から、椹木町通とともに京都最大の魚鳥菜果市場として栄え、大名行列の通り道でもあった西堀川通でしたが、明治中期頃から徐々に小売店舗や飲食店が軒を連ねるようになり、上京区で最初の商店街としての形ができあがりました。
大正中期には通りに私費舗装が施され、鉄骨アーチのテントがかけられました。そこには老舗と呼ばれる長い歴史を持つ有名店から目新しい商品を揃えた店などの小売商店、そして映画館、カフェー、銀行、ビリヤード店、喫茶店や飲食店といった当時時代の最先端だった娯楽施設など様々な種類の店が立ち並びました。
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まだテレビ・ラジオがなかった時代、家族やカップルでウインドウショッピングをすることが楽しみの1つであり、ピーク時には商店街を訪れる人で向かい側が見えないほどの賑わいをみせたと言われています。当時の人々は昼間忙しく家族総出で働き、夜に買い物に出る事が多かったので昼夜を通して買い物客で人通りが絶えませんでした。
また娯楽の場として若者が集う夜には空に色とりどりのネオンが美しく輝き、道行く人の目を奪いました。商店街は東の新京極に対して西の『堀川京極』と呼ばれ市内有数の歓楽街として栄華を極めました。
―――終戦間際の建物疎開。
建物疎開とは、空襲により火災が発生した際に周辺住宅や重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を強制的に撤去する国策でした。
堀川の南北一帯が広域防火帯として計画に位置づけられ、太平洋戦争末期(昭和20年)になって、建物疎開が実施されることになり、堀川京極商店街もそこに含まれていました。
住宅や店舗の明渡しを求める「戦時退去命令」が発せられ、住民たちは猶予期間内での強制退去を余儀なくされました。疎開に選ばれた建物の住人に対して補償は行われたものの、5日のうちに移転先を探して立ち退くように命じられました。
退去後の住宅や店舗等は解体・撤去され、堀川京極商店街は姿を消し、代わりに広い空地が出現しました。
―――堀川団地の誕生。
堀川京極商店街で建物疎開が行われてから間もなく、日本は終戦を迎えました。時代に翻弄され、自らの店を失った人々は、複雑な気持ちを抱かれたことだろうと思います。
建物疎開の結果できた空地は広大なものでしたが、その多くは都市の高規格道路の用地となることになりました。それが今の堀川通です。
住む家、商いをする店をなくした旧地権者たちは、堀川通の用地とならなかった西側の民有地に居住していました(そこの一部が、後に堀川団地の敷地となりました)。
京都府住宅協会(会長は知事:現京都府住宅供給公社の前身)は、住宅難解消と堀川商店街の復興をめざして、住宅金融公庫の資金を基に、堀川通西側の民有地を買収し、昭和25年から28年にかけて1階に14戸の店舗と48戸の店舗付住宅、2階、3階を122戸の賃貸住宅とした店舗付き集合住宅(これがいわゆる下駄履き住宅)を6棟建設しました。
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堀川団地は椹木町団地、下立売団地、出水団地第1棟・第2棟・第3棟、上長者町団地の計6棟からなります。昭和25年に出水団地第1棟・第2棟・第3棟が、昭和27年には下立売団地が、翌28年には椹木町団地と上長者町団地が順次建設されました。いずれも鉄筋コンクリート構造ですが、戦後の公営住宅で多用された壁式構造ではなく、ラーメン構造が採用されています。住戸には、都市ガス、水洗便所と、当時珍しかった設備が用意され、文化的、衛生的な近代アパートとして大変人気を博したそうです。
堀川団地は全国初の店舗付き集合住宅としても注目を浴びました。上長者町団地を除き、1階はいずれの棟も前面(堀川通側)に店舗を、奧の西側に住居を併設した店舗付き住宅として設計されています。この店舗付き併用住宅には原則として堀川京極商店街で店舗を営んでいた方が入居しました。
2,3階には、専用住居が配置され、入居者は一般公募されました。専用住戸のプランは各棟毎に少しずつ違いが見られます。上長者町は階段室型ですが、他の5棟は東西通路を端部に設けて西側に片廊下を通してあります。そして平面計画では、椹木町団地が食事室を設けた2DK、下立売は3畳の中の間を置いた3K、その他の4棟は2Kのタイプです。面積は出水団地が最も狭く約32㎡、上長者町団地が約34㎡、下立売団地が約41㎡、椹木町団地が最も広く約42㎡となっています。また、店舗併設型の1階と住戸である2,3階との奥行きの差を利用し、2階部分に広々としたベランダが設計されています。
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堀川団地まちづくり懇話会の座長を務められた京都大学髙田教授は、堀川団地の建設が始まった1950年は公営住宅法が生まれる前で、標準設計は普及しておらず、おそらく京町家をモデルに堀川団地は設計されたのだろうと、言われます。通り庭を意識した住戸平面、土壁や漆喰の内装、徹底した風通しの確保など、「堀川通りの立体町家」といっても過言ではないそうです。
堀川団地は建設後30年経った、昭和55年頃から老朽化が語られるようになりました。40年が過ぎた平成2年には、将来の建替を見込んで空家の補充が停止となりました(その後1階の商店のみ定期借家制度を活用した補充が再開)。
平成15年に、詳細な耐震診断調査が実施され、阪神淡路大震災クラスの大地震に襲われると倒壊の恐れがあることが判明しました。この調査を契機に、建替・再生の機運が高まり、平成21年に京都府によって堀川団地まちづくり懇話会が設置され、再生の計画づくりが始まり、今日に至ります。